雲仙岳噴火災害と報道
1991年6月3日、午後4時8分、雲仙・普賢岳で大火砕流が発生し43名もの貴重な生命を奪う大惨事となりました。
そのとき私も島原に暮らしており、各所を現地調査して記録をまとめ公に発表しました。
報道は盗電していた
当時、被災地域は住民も避難した立入禁止区域となっていました。ここに取材陣が入り込み、なんと無人となった家屋に立ち入り盗電したのです。これを知った地元消防団は、この区域に立ち入ってパトロールを開始しました。
地元住民の命を奪ったのは報道
そこに大火砕流が押し寄せ、尊い命が犠牲となりました。
その他に、地元民が命を奪われたのは、取材陣に借り上げられ同地区に入るよう指示されたタクシーの運転手でした。
消防団員とタクシー運転手。地元住民の命を奪ったのは報道です。彼らの犯罪行為と横暴が地元民の命を奪いました。
地元報道陣は市民と共にあってくれました
報道のために弁明もしておきます。地元報道陣はハートのある取材をしていました。これは本当に有難かった。採り上げ方が暖かく、地元に有益な情報が多かったのです。また島原新聞は大火砕流翌日に上記横暴に対し怒りを露にして全面で批判。新聞史上に残る記事だと思います。島原市図書館に行けば今でも読めます。
横暴極まりない中央からの報道陣
どうにも許しがたかったのは、中央から来た報道陣の横暴でした。「伊豆大島の噴火はこんなチョロいもんじゃなかった」と屋台で武勇伝を披瀝し、大惨事後に心ある報道人達が開いた追悼の会では、取材クルーに赤いバンダナにガムを噛んだバカどもも見られました。
1年後の6月3日、報道番組ニュースステーションは「あれから1年」といったタイトルで特集を組みましたが、内容は自分たち報道仲間の命が奪われたと報じ、自分たちの悪行が地元住民の命を奪ったことは隠匿し、地元は呆れたものです。盗電。これは犯罪です。
あのころ、ネットはまだその発展の途上で、地元の人間は歯がゆさに唇を噛みました。今日、あの手の横暴さが徐々にですが緩和されていっているのは、ネットによって報道も見られる側になったことも一因になっています。